いだてん押川春浪(武井壮)の実在モデルは小説家!バンカラすぎる人生とは?
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」に武井壮さんが出演されます。
役どころはスポーツ社交団体「天狗倶楽部」や日本初のオリンピック予選会に貢献、冒険小説家でもあった押川春浪(おしかわしゅんろう)。
学校を何度も中退したり、天狗倶楽部でのバンカラな行動が多かったとされる人物は一体どんな人だったのでしょうか?
大好きな野球で人生に大きく変わった実在人物について調べてみたのでご紹介いたします。
「いだてん」武井壮さんの役どころ
武井壮、五輪テーマの大河『いだてん』出演に感慨「ありがたい役を…」 #武井壮 #大河 #いだてん https://t.co/FFbAxceO1t
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スポーツをこよなく愛し、各種競技に精通。
スポーツ社交団体「天狗倶楽部」の創設者となったのが押川春浪。
人気雑誌「冒険世界」などでも主筆を務め、日本のSF小説の祖とも言われた。
その当時の若者への人気は夏目漱石に並ぶほどでした。
押川春浪の実在モデルは?
武井壮さんが演じることで注目の2019大河 #いだてん の押川春浪(おしかわしゅんろう)。
「野球をやる若者は不良」という明治時代の中、野球を愛して彼等が立ち上げたのが「天狗倶楽部」という日本初のスポーツクラブでした。
いだてんで重要な存在となる天狗倶楽部とは?https://t.co/wKr33k4O3Q
— 武将ジャパン (@bushoojapan) 2018年7月8日
武井壮さん演じる押川春浪(おしかわ・しゅんろう)は実在した人物で、本名を押川方在(おしかわ・まさあり)と言いました。
明治9(1876)年3月21日、愛媛県温泉郡松山小唐人町(松山市)で、父・方義、母・常子の長男として誕生。
父はキリスト教牧師で伝道活動を行っていたため、生後8か月で新潟へ。
新潟大火が2年連続続いたこともあり、仙台に移ります。
学校歴は退学ばかり
明治16年(1883)、宮城師範学校付属小学校入学。
卒業後は、高等単身上京して明治学院に入学します。
しかし野球に熱中するあまり2年続けて落第・・
仙台に呼び戻されて、父の設立した東北学院に編入したのでした。
東北学院では乱暴を働き放校処分となって、札幌農学校に編入。
しかしここでも騒ぎを起こし学校を去ります。
明治27年(1894)、水産講習所(現、東京海洋大学)入学。
しかしここも退学・・
父・方義の親しかった大隈重信が創立した東京専門学校 専修英語科 に入学。
英語学部卒業後は、政学部邦語政治科入学しました。
ここで野球部を創設するも早々に消滅したそうです。
退学と入学を繰り返した押川春浪は、素行が良くないバンカラ・・
しかしとても秀才であったはずです。
学校在学中に次々と冒険小説を発表しています。
冒険小説と改名
「水滸伝」「三国志」を愛読していた押川は、「少年文庫」誌にも投稿しており、フランスの詩人ユーゴーと小説家のデュマなどに刺激を受け、小説家を志し「海底軍艦」を執筆しました。
明治30年(1900)、「海島冒険奇譚 海底軍艦」を文武社から出版すると人気が高まります。
この頃、作家・巌谷小波が主催する文学サークル木曜会に参加。永井荷風ら小説家たちとの親交を深めていきました。
そして巌谷小波から、後に「春波」の号を与えられ、これを自ら「春浪」に改名、押川春浪となったのでした。
※巌谷小波(いわや・さざなみ)は明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。
明治37年(1904)、日露戦争がはじまると博文館では雑誌「日露戦争写真画報」を刊行。
巌谷小波の推薦で、春浪は編集者として就職。
編集作業のかたわら同誌に小説や時評を執筆したのでした。
戦後には「日露戦争写真画報」が「写真画報」に代わると、春浪は編集長に抜擢され、ここでも小説を掲載しました。
明治41年(1908)、「写真画報」が廃刊するも、春浪が主筆した「冒険世界」が刊行。
春浪作の多くの冒険小説が掲載され、他の作家も冒険小説を執筆。
冒険小説ブームを引き起こし、人気はとてもすごかったそうです。
スポーツ普及
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大の野球好きと、実の弟・清が早稲田大学野球部のキャプテンだったため、野球界への人脈が広かった押川春浪は、「冒険世界」の雑誌上でも、スポーツ振興を大きく取り上げ始めました。
また東京運動記者倶楽部にも加入し、吉岡信敬(役、満島真之介)らとスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を結成。野球や相撲、テニスなどを楽しみました。
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いだてん吉岡信敬(満島真之介)の実在モデルは?日本初の応援団長?
またスポーツのための総合グランドの必要性にも着目。
当時、京浜電鉄の社員で天狗倶楽部の中心的人物でもあった中沢臨川(役、近藤公園)とともに、羽田運動場の建設にも携わりました。
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さらには日本運動倶楽部を設立し、様々な競技大会を開催。スポーツ普及に励みました。
明治44年(1911)、ストックホルムオリンピックの予選大会を開催。
日本初のオリンピック出場に大きく貢献しました。
野球害毒論
明治44年(1911)、東京朝日新聞で「野球害毒論」が掲載されると、読売新聞紙上で反論掲載したり、演説会などを開いて反論しました。
しかし「冒険世界」紙上での反論掲載をめぐり、勤めていた博文館の上層部と対立。退職に至ります。
野球害毒論の論争相手は、あの有名な新渡戸稲造でした。
野球毒害論とは
野球の人気が高まると、学生野球の有名選手がチヤホヤされました。
そうなると世間は、イチャモンをつけはじめたのです。
選手たちのユニホームが派手すぎるとか、
スター気取りだとか・・
当時はまだスポーツは遊びという認識。
そのため学生の分際で野球の試合に入場料を取りやがってだとか、つまりは学生のくせにという言い分です。
これに反論したのが、早稲田大学のバンカラ気質を集めた団体、天狗倶楽部の押川春浪たちだったというわけです。
早すぎる晩年
野球毒害論から1年・・
大正元年(1912)1月、興文社で「武侠世界」誌を主筆として発刊。
春浪の小説や評論などに加えて、スポーツ記事や政治論、偉人伝記などにも力を入れ、売り上げをアップさせました。
大正2年(1913)、飲酒により体調が悪化。執筆が出来ないほどでした。
大正3年(1914)4月~6月には、小笠原諸島の父島で療養。
同年11月16日、脳膜炎で死去。38歳という若さでこの世を去りました。
さいごに
大河ドラマ「いだてん」の押川春浪は実在した人物。
野球をこよなく愛し、バンカラな素行を持ちながら、スポーツ普及に携わる小説家でした。
この役を演じる武井壮さんはスポーツ万能で多才の印象ですよね。
実在モデルを脚本、宮藤官九郎さんがどのように演出されるのか楽しみです。
ドラマ見逃せません!!
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