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      2018/11/14

いだてん吉岡信敬(満島真之介)の実在モデルは?日本初の応援団長?








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2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」に満島真之介さんが出演されます。

役どころは日本のオリンピック選手となった三島弥彦(生田斗真)の友人で日本応援団長吉岡信敬(よしおかしんけい)

日本初の応援団長と言われる人物は一体どんな人だったのでしょうか?

早慶戦野球とヤジに大きく関係したと言われる実在人物について調べてみたのでご紹介いたします。

「いだてん」満島真之介さんの役どころ


三島弥彦(生田斗真)と熱い友情で結ばれている男、吉岡信敬(よしおか・しんけい)は、全国各地で熱心に応援活動を繰り広げ、あだ名はヤジ将軍

 

スポーツ社交団体「天狗倶楽部」の名物男とも言われ、日本最初の応援団長として東京の学生で知らぬ者はいない程でした。

満島真之介さんのコメント
多分人生で一番のはまり役だと思っています!
これから日本を盛り上げていきたいです!

 

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吉岡信敬の実在モデルは?


満島真之介さんが演じる「吉岡信敬」は実在した、同姓同名の人物。

本名では「のぶよし」ですが、本人はじめ皆も「しんけい」と呼んでいました。

 

明治18年9月1日、長州藩士・吉岡湖一郎の三男として誕生しました。

父・湖一郎は明治維新で死去したため、恵まれた家庭ではありませんでした。

幼少期については分かっておらず、出生地も山口県?東京都?と分かっていません。

 

小学生の頃は、吉岡信敬は東京の小石川に住んでいました。

隣町の少年グループと対立した際、罵倒しながら罠にはめる役割となり、罵倒…ヤジに怒った少年が追いかけてくると、待ち受けていた仲間たちが石を投げるという悪さをしていたようです。

 

中学時代

早稲田中学校に入ると野球部に入りセンターを守りました。

野球はあまり上手じゃなく、ヤジに目覚め、試合に行ってはヤジを飛ばすようになります。

 

中学4年生のときは、れた制服を着てヒゲを伸ばした、バンカラぶり。

ヒゲがトレードマークでした。

下級生からは「髭のおじさん」というニックネームをつけられていたそうです。

日本初の応援団長

明治38年4月、早稲田大学野球部は、アメリカ遠征から日本野球界に多くのものを持ち帰り、早慶戦の試合にアメリカ式の3試合制を取り入れました。

アメリカ遠征で野球部部長・安部磯雄はカレッジフラッグ(学校の旗)を持ち帰り、早慶戦の応援で持ち込んでみたところ、旗の振り方が分からないものばかり・・

この時、野球部長の安部が、野球部と親交があった吉岡信敬に応援の方法を託したのでした。

 

このような経緯で早稲田大学に日本初の応援隊(早稲田大学応援部)が発足

吉岡信敬は予科生(旧制大学の入学前)にも関わらず、大学生を差し置いて初代・応援隊長に就任

 

思う存分ヤジを飛ばし、ヒゲの風貌から「虎髭彌次将軍(とらひげやじしょうぐん)」と呼ばれました。

早慶戦中止

明治39年11月、早慶戦は1勝1敗の接戦・・

両校ともにアメリカ式の応援スタイルを取り入れ、応援合戦はエスカレート。

陣取りで揉めに揉めており、3回戦も場所の取り合いで揉めていました。

 

早稲田大学、応援隊長・吉岡信敬は、話し合いの場で場所を少ししか譲らない慶応義塾大学の応援隊に、指揮官を6頭の馬に乗せ、剣を持ち、1万人の応援隊で慶應のグランドに乗り込むと見栄を切りました。

 

すると慶應側は、早稲田の応援隊を阻止するため、前夜からグランドにバリケードを張り、寝ずに番をして阻止すると言い放ったのです。

 

話し合いはこじれにこじれたため、両校の教授同士の話し合いに発展。

それでも落ち着かず学長が出てくるも、大学のメンツをかけた戦いで両校ともに譲らず、早慶戦3回戦は中止となってしまいました。

 

この試合中止も1週間程度の延期と思っていたが、これを機になんと全てのスポーツ交流が禁止

野球にいたっては、19年間も中止されたのでした。

人気ぶり

この経緯は全国に広まりました。

その際、話が大きくなって、吉岡信敬が白馬に乗り、剣を抜いて慶應グランドの応援に駆けつけたというエピソードとなって広まったのでした。

 

このおかげなのか、「運動世界」が行った「運動家十傑」という読者投票企画では、スポーツ選手ではないにもかかわらず10位に選ばれました。

一部から批判を浴びるも、人気がありました。

 

歌人の窪田空穂とは、終生親しい付き合いがあり、窪田はこんなエピソードも残しています。

「信敬とともに菓子を買いにいったところ、見知らぬ店員から『あなた吉岡さんでしょう。おまけして置きましたよ』とサービスをされた」「上京して旅館に逗留していた友人のもとへ信敬を紹介したところ、友人は宿の女中からしきりに『あなた、なぜ吉岡さんを知っていますか?』と不思議がられた」

天狗倶楽部以降

明治42年、親友の冒険小説家、押川春浪(役、武井壮)が主催したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」に加入

同時期に春浪が主筆を務めた『冒険世界』『武侠世界』や安部磯雄主幹の『運動世界』といった雑誌の原稿も書いていました。

 

大正元年、早稲田大学を中退し、志願兵として麻布第一連隊に入営。除隊後は読売新聞などで勤めます。

大正3年、春浪がくなると、吉岡信敬は天狗倶楽部とは距離をおくようになり、『冒険世界』や『武侠世界』で執筆をすることも減っていきます。

 

作家、横田順彌は「信敬には、自分の行動が元で早慶戦が中止になってしまったという負目があり、実際、天狗倶楽部のメンバーの三分の一は、当時の早稲田野球部員で構成されていたから、その両者のパイプ役であった春浪の死によって、信敬は居づらくなったのだろう」と推測。(『明治バンカラ快人伝』、光風社出版、1989年)

 

こうして吉岡信敬は、時折雑誌のインタビューなどに登場しても、以前のように表舞台には現れることはなくなりました。

昭和15年12月7日、57歳の人生に幕を閉じました。

 

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さいごに

大河ドラマ「いだてん」の吉岡信敬はヒゲ面でヤジを飛ばす、日本初の応援団長。実在した人物。

吉岡信敬という人間はこんな一面もありました。

「島崎藤村」の詩を愛し「母を葬るの歌」をよく口ずさんではしていた。

園芸が趣味。「応援隊活動に生活の六分を費やしているなら、草花いじりには三分を費やしていた」とも。

 

演じる満島真之介さんは人生で一番のハマり役と仰る吉岡信敬。見どころ満載でしょう。

「いだてん」見逃せません!

 

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