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      2018/11/07

いだてん生田斗真(三島弥彦)の実在モデルもイケメン?髭のエリート?








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2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」に生田斗真さんが出演されます。

役どころは主演、金栗四三(中村勘九郎)と一緒にオリンピックに出場した、三島弥彦

日本人初のオリンピック選手となった人物はどんな人だったのでしょうか?

経歴もかなりのエリートのようです。あらすじネタバレ含めてご紹介いたします。

「いだてん」生田斗真さんの役どころ

主人公、金栗四三の盟友。

日本人初のオリンピック選手に選ばれた人物。

父は元警視総監、兄は日本銀行総裁。

子爵の名家に生まれ、東京帝国大学の学生というトップエリート。

あらゆるスポーツに秀で「運動会の覇王」と呼ばれます。

三島弥彦の実在モデルについて

生田斗真さん演じる三島弥彦(みしまやひこ)は実在した、同姓同名の人物です。

三島弥彦は明治19年(1886)2月23日、東京府麹町区八重洲町に生まれました。

父、三島通庸と母、三島歌子の3男でした。

 

父は、薩摩藩士・三島通純の長男として生まれ、警視総監を務めるまでの人物。

「鬼県令」「土木県令」と恐れられ、弥彦が2歳の時に脳出血で死去しています。

 

兄の彌太郎(長男)は、第8代日本銀行総裁。(小澤征悦さんが演じます)

姉の峰子(二女)の玄孫(孫の孫)は麻生太郎さん。

エリート一家に生まれ育ちました。

 

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学習院の初等科から高等科に通い、中学から野球、陸上、ボート、スキー、柔道、水泳、乗馬などの様々なスポーツに取り組み、実力を発揮します。

身長は170cmを超える長身で、なかでも一番好きだったのが野球

学習院時代はエースで主将。野球強豪校へ導き、早慶戦では審判も務めるほどの実力でした。

オリンピック選手になるまで

明治40年(1907)、東京帝国大学(東京大学)の法学部へ進学。

明治42年(1909)、中沢臨川や押川春浪が中心となって羽田技場が建設され、スポーツ競技団体「日本運動倶楽部」も設立。
これと並行してスポーツを楽しむ社交団体「天狗倶楽部」が発足されると、各種スポーツ大会が開催されました。

 

三島弥彦は「天狗倶楽部」の相撲大会に助っ人として呼ばれたことをきっかけに倶楽部に加入。

天狗倶楽部はオリンピック予選の準備に関わっていて、弥彦は審判を任されました。

 

オリンピック予選大会に出場する気はなかったものの、審判として携わると、「生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やうという」という考えで飛び入り参加したというエピソードが残っており、練習なしで100メートル走で1位となりました。

200、400、800メートル走にも参加。200メートルで2位という以外は全て1位優勝という素晴らしい結果を残しました。

こうやって長距離マラソンに出場していた、東京高等師範学校の学生、金栗四三とともに日本代表に選ばれたのでした。

オリンピック選手としての苦悩

三島弥彦は日本国内では優秀な成績でしたが、世界記録と比較すると戦えないほど。

他種目の幅跳び高跳びなどの予選も行っていて、出場候補者は他にいたものの、スポーツはまだ遊びという理解で、文部省から補助金は打ち切られる始末。

オリンピック出場の費用を自己負担できる家柄、財力が考慮されて、三島弥彦は選出されたと言われています。

 

学生の本分は学業で、スポーツは遊びとみなされてていた時代。

三島弥彦は裕福な家庭だったためお金の問題はなかったが、学業に専念せずオリンピックに参加することに苦悩し辞退しようとしました。

しかし東京帝国大学の学長、仲間たちから支援、説得されてオリンピック出場を決意します。

 

オリンピック出場を決意した弥彦は、おっとりのんびりした性格だったが、本腰を入れて練習に打ち込み、タイムを縮めます。

オリンピック出場

明治45年(1912)5月16日、ストックホルムオリンピックのために日本を出発。

監督の大森兵蔵の体調が悪く、妻の大森安仁子(アニー)が付き添いました。

船でロシアのウラジオストックに渡り、シベリア鉄道でストックホルムへ。日本代表の現地入りまでは2週間かかりました。

 

ストックホルムでは世界の選手に圧倒。

また初の海外、白夜という慣れない環境のもと、監督不在も重なり、弥彦も金栗四三もノイローゼになるような状態だったそうです。

柔道の父日本の体育の父と呼ばれた嘉納治五郎が到着すると、心落ち着かせられたが、弥彦の予選成績は10、200、400メートル全て最下位という散々な結果でした。

400メートルに限っては棄権者が出て本戦に出場できたものの、戦意喪失してしまい棄権しています。

東京帝国大学卒業後

ストックホルムオリンピック出場後は次のベルリンオリンピックを目指し、ベルリン視察に出向くものの、大正5年(1916)のベルリンオリンピックは、第一次世界大戦の影響で中止。

大正9年(1920)のベルギー、アントワープオリンピックには予選にも出場しませんでした。

 

大正2年(1913)、東京帝国大学を卒業した弥彦は、横浜生金銀行に入社。

ロンドン、サンフランシスコ勤務を経て、横浜本店営業部副支配人となっています。

大学卒業を機にスポーツを引退したようで、それからのスポーツに関する活動は分かっていません。

昭和18年(1943)に退職。

昭和29年(1954)2月1日に死去。68歳の人生でした。

さいごに

日本人初のオリンピック選手だった三島弥彦は、超エリートのご子息でした。

家柄が良く、裕福な家庭で育ち、体格は当時としてはとてもよく身長170cm超え。

東京帝国大学の法学部の秀才でスポーツ万能。

生田斗真さんが演じるに相応しい、申し分のない青年ですね。

見た目、イケメンだったかは数少ない写真で検証できず・・

髭を生やしてオリンピックに出場した逸材でした!

大河ドラマ「いだてん」楽しみです!!

 

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