いだてん大森兵蔵(竹野内豊)の実在モデルは?経歴も結婚も凄すぎる!
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」に竹野内豊さんが出演されます。
役どころはオリンピックの日本選手団監督、大森兵蔵。
日本人初のオリンピック監督となった人物は一体どんな人だったのでしょうか?
主人公、金栗四三の(役、中村勘九郎)のオリンピック初参加に尽力し、バスケットボールやバレーボールを日本に伝えた功労者で、明治時代に国際結婚までしたという実在人物についてご紹介したいと思います。
「いだてん」竹野内豊の役どころ
#いだてん 今度のシャーロットの旦那さん役は #竹野内豊 さん。カッコいい。お似合い。シャーロット紫のドレスがよく似合うね。楽しみ。 pic.twitter.com/E6LWWDPuYN
— サツキ (@gigiwingkei) 2018年7月20日
大森兵蔵(おおもり・ひょうぞう)は、ストックホルムオリンピック日本選手団監督。
アメリカに留学した経験があり、日本にバレーボールとバスケットボールを持ち込んだパイオニア。
欧米のスポーツ事情に精通しているが、アメリカ仕込みの物腰がキザな男に映ります。
ストックホルムオリンピック日本選手団の監督として、スウェーデンへ向かうが・・
大森兵蔵の実在モデルは?
#いだてん勘九郎
取材会には、生田のほか、中村勘九郎、永山絢斗、満島真之介、近藤公園 // 杉本哲太、竹野内豊、役所広司、制作統括の訓覇圭氏が出席
《2018年7月20日(金)14:22配信,マイナビニュース》生田斗真、19年大河『いだてん』で充実の日々「毎日の撮影がワクワク」 https://t.co/6w6If4EPvG pic.twitter.com/G6cC2io9ZD— 中村屋兄弟(非公式) (@Nakamuraya_97b) 2018年7月20日
竹野内豊さん演じる大森兵蔵(おおもり・ひょうぞう)は実在した人物。
明治9年(1876)3月14日生まれ、岡山県岡山市出身。
運命の出会い
同志社普通校(現、同志社大学)を中退。
東京の中高等商業学校(現、一橋大学)に入学するも中退。
アメリカ、カリフォルニアのスタンフォード大学で経済学を学びます。
大森兵蔵は日本人の中でも貧弱な体格だったこともあり、アメリカ人の体格の良さに驚きます。
そして日本人の体格向上には体育の普及が必要だと考え、スタンフォード大学を中退し、国際YMCAトレーニングスクールで専門的な体育を学びました。
国際YMCAトレーニングスクール在学中の夏休みのアルバイトで運命的な出会いをします。
アルバイトはアメリカ人女性画家の家で、料理をすることでした。
料理人として、そのアメリカ人女性の家にアルバイト期間中、住み込みで働くようになりましたが、2日もしないうちに辞めることを告げてしまいます。
理由は、自分が作る料理の不甲斐なさからでした。
アルバイトで雇ってくれたアメリカ人女性画家の名は、アニー・バロウズ・シェプリー。
アニーのシェプリー家は、イギリスのヨークシャーからアメリカに渡った開拓民。
ニューイングランドの名門で、「サー」という称号を与えられいたほどの家柄の令嬢でした。
大森がアルバイト辞退の申し出をするも、アニーは引き留め、料理ではない他の仕事を依頼しました。
引き留めた理由ですが、大森の風貌がどことなくイエスキリストに見えたからだそうです。
大森は武士の家系。
生まれながらの教養もあって、話がとても面白く、趣味も合い、アニーは次第に大森に惹かれていきました。
しかしなんと歳の差19歳。それもアニーが年上。
この時、大森が30歳。アニーは49歳でした。
アニーはピューリタンとして厳格に育っていたため、使用人の大森とは一緒に食事をとらないほど、雇用主としての関係を崩しませんでした。
※ピューリタン…清教徒。比喩的に、自己に対して厳格・潔癖な人。
しかしアニーの想いに大森も気づいており、大森も次第にアニーに惹かれはじめていました。
アルバイト期間が終わる夏休みの終わりになるころ、大森は庭のベンチのペンキ塗りを行いました。
このペンキ塗りでツタウルシにかぶれ、体中が腫れ上がる事態に。
これを心配したアニーは大森を手当てし看病をします。
それをきっかけに2人は急接近。交際に発展し、結婚の約束をしたのでした。
夏休みが終わって大森が国際YMCAトレーニングスクール戻ると、2人は文通で愛を深めていきます。
そして明治40年(1907)10月1日、アメリカで結婚式を挙げたのでした。
この時、大森31歳。アニー50歳。2人とも初婚だったそうです。
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日本に帰国
結婚した大森は、明治41年(1908)日本に帰国。
東京YMCAの初代体育部主事に就任し、バスケットボールの指導をはじめます。
また、日本女子大学の教授として、衛生学、体育学を教え、バスケットボール、バレーボール、テニスなどの指導も行いました。
日本人の体格を向上させるには、子どもの頃からの運動が大事と訴え、児童遊園の必要性を唱えますが、アメリカの真似事だと批判されてしまいます。
大森の体育普及の情熱は、日本のYMCA幹部には受け入れられず、明治42年(1909)には東京YMCAの体育部主事を辞しました。
大森は体育普及と並行して、妻となったアニー(日本では、大森安仁子)とともに有志の婦人を集め、「有隣婦人」をつくり、明治44年(1911)8月、東京新宿区に児童福祉施設「有隣園」を完成させます。
これがセツルメント事業の第一歩となりました。
有隣園は、新宿の成子天神(なるこてんじん)で遊んでいた子供たちに、遊びを指導したりする施設。
境内で遊んでいた子供たちを指導することからはじまり、後に保育園もつくりました。
大森兵蔵は岡山の武士の家系。
アメリカ人アニーとの結婚はもちろん反対されました。
しかし説得の末、理解が得られるとアニーを連れて岡山の実家を訪れ、親族に紹介。
アニーは親族に受け入れたため、明治44年(1911)日本に帰化しました。
オリンピック日本選手団監督に
日本が初めてオリンピックに参加したストックホルムオリンピック。
その選手団の監督に就任することになった大森。その経緯は次の通りでした。
柔道の創設者と言われる嘉納治五郎は、東京高等師範学校(現、筑波大学)の校長で、マラソン、水泳を教育に入れていた人でした。
明治42年(1909)、嘉納治五郎は日本初、東洋初の国際オリンピック委員会(IOC)にも就任されていました。
東洋、アジアはまだオリンピックに参加していなかったため、明治43年(1910)、IOC委員会長のクーベルタン男爵より、日本にオリンピック参加の要請がくだります。
そして明治45年(1912)に開催される、ストックホルムオリンピックに日本は初めて参加することになったのでした。
嘉納治五郎は、日本にオリンピック委員会を設置するため文部省に掛け合いますが、当時スポーツに対する理解がない時代。文部省の協力は得られませんでした。
すると嘉納治五郎は、スポーツにある程度理解があった東京帝国大学、早稲田大学、慶応大学、明治大学などと協議して、明治44年に大日本体育協会を設立し会長となって、日本オリンピック委員会を設置しました。
大森兵蔵は、スポーツ、運動に関する論文を発表していたことから、外国のスポーツ、運動事情を知っている第一人者として、嘉納治五郎に認められ「大日本体育協会」の設立に参加。
嘉納治五郎の右腕となって、オリンピック出場を実現するために奔走しました。
この時、大森兵蔵は肺結核を患いながらも嘉納治五郎の右腕として多忙な日々を送っていたそうです。
大森兵蔵の妻アニーも、日本初のオリンピック出場のため、マラソン選手金栗四三などに英会話やテーブルマナーを教えて尽力しました。
当時、オリンピック参加が決まるも、日本選手団の監督を引き受ける人がいなかったが、体調の優れない大森兵蔵に無理を言って引き受けてもらったという話が残っているそうです。
大森兵蔵は監督を引き受け、明治45年(1912)5月、妻のアニー、金栗四三、三島弥彦の4人でストックホルムに出発しました。
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オリンピック参加
日本からストックホルムには、船でウラジオストックに渡り、シベリア鉄道に乗って、スウェーデンの首都ストックホルムに入りました。
日本からなんと40日もかかったそうです。
ストックホルムに入った時、大森兵蔵の体は蝕まれていました。
長旅の間に肺結核がぶり返し、吐血するまで悪化。
選手の練習には参加できず、妻のアニーの看病を受けていました。
体調が悪い中、金栗四三のマラソンを応援した監督の大森兵蔵は再び体調を悪化させ、医者からは絶対安静を言い渡されます。
ストックホルムから帰国する金栗四三は、大森のもとに挨拶に行くも、妻アニーから面会を断られるほど深刻な状態になっていました。
大森兵蔵はストックホルムに残り静養をした後、文部省から依頼されていたアメリカの体育施設の視察に。
アメリカに渡り、アニーの親類がいるボストンを訪れたときには、またもや容態が悪化しており、医者から旅行は禁止。入院を勧められます。
アニーは入院する病院を探していましたが、大森が有隣園のことを心配し、日本に帰りたいと懇願するので、ボストンからサンフランシスコへ行き、日本に帰国することを考えましたが、日に日に容態が悪化。
長い船旅にはとても耐えられる体でないことを判断したアニーは予定を変更。
サンフランシスコ近くのサバディアナ病院に入院させました。
しかし入院の甲斐なく、大正2年(1913)1月15日、38歳の若さで亡くなっていまいました。
さいごに
大河ドラマ「いだてん」の大森兵蔵は実在した人物。
日本の大学を経てスタンフォード大学で学び、日本人の体格向上にはスポーツ、体育の普及が必要と唱え、日本初のオリンピック参加に尽力した方でした。
プライベートでは歳の差19歳の年上女性と国際結婚。
この事実を脚本、宮藤官九郎さんがどのように演出されるのか?
楽しみでなりません。ドラマ見逃せません!!
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