いだてんハリマヤ黒坂辛作(ピエール瀧)の実在モデルは金メダルの足袋開発者!
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」にピエール瀧さんが出演されます。
役どころは主演、金栗四三(中村勘九郎)のマラソン用足袋の開発を手掛ける、ハリマヤ店主の黒坂辛作。
日本人初のオリンピック選手となった人物の競技人生に、大きく貢献した逸材はどんな人だったのでしょうか?
金栗足袋やカナグリシューズの生みの親の人生をご紹介したいと思います。
~もくじ~
「いだてん」ピエール瀧さんの役どころ
おはようございます!
静岡の皆さん、今日は「しょんないTV」の日です。#しょんない #静岡あるある pic.twitter.com/QCYEKawM6f— ピエール瀧のしょんないTV(静岡朝日テレビ) (@shonnai_tv) 2018年11月7日
足袋のハリマヤの黒坂辛作(ピエール瀧)は、東京・大塚の足袋屋の店主。
金栗四三(中村勘九郎)が偶然この店の足袋を履いて長距離走で優勝。
優勝がきっかけで、マラソン用の足袋開発に二人三脚で取り組む。
頑固一徹な職人気質だが、金栗の年齢の離れた盟友となっていく。
ハリマヤ店主 黒坂辛作の実在モデル
ピエール瀧さん演じる黒坂辛作(くろさかしんさく)は実在した、同姓同名の人物です。
明治14年(1881)、兵庫県姫路市に生まれ、21歳で上京。
明治36年(1903)、東京・大塚仲町の市電停留所前に足袋のお店「播磨屋」を創業しました。
この播磨屋は金栗四三(中村勘九郎)が通っていた東京高等師範学校(現、筑波大学)の裏側にあり、金栗四三とは30歳の時に出会いますが、それまで黒坂辛作は普通の足袋職人でした。
金栗四三との出会い
東京高等師範学校の校長、嘉納治五郎(役所広司)は学業にスポーツを取り入れており、学内でマラソン大会を年2回開催していました。
学生たちはマラソン、長距離には靴は軽い方が有利だとして、学校裏にあった播磨屋の足袋を買い走っていました。そのため播磨屋は東京高等師範学校の御用達店となっていました。
ストックホルムオリンピックに初参加する日本。
明治45年11月、日本代表選手を選ぶため予選が開催され、選ばれたのが東京高等師範学校の金栗四三(中村勘九郎)と東京帝国大学の三島弥彦(生田斗真)でした。
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当時のマラソンの距離は25マイル(40.225㎞)。
この距離を金栗四三は普通の足袋を履いて走っていましたが、折り返し時点ですでに足袋は破れボロボロ。ゴールする時は裸足だったそうです。そのため、かかとには大きな血豆ができ、数日間は歩くことさえできない状況でした。
金栗四三はオリンピックで勝つために猛練習に励むも、2~3日で足袋には穴が開いてしまいます。
はじめは針と糸で縫い直して対応していましたが、学校裏にあった播磨屋の店主、黒坂辛作に足袋の改良開発をお願いしたのでした。
マラソン足袋
マラソンのために初めて改良がされた足袋は、底を布で3重にしたものでした。
この足袋の名称を「マラソン足袋」と言いました。
この底3重の足袋でストックホルムオリンピック出場した金栗四三でしたが、ストックホルムの道路は舗装されていたので、底を3重に補強しただけの足袋では衝撃吸収ができません。
金栗四三はストックホルムでの練習中に膝を痛めていました。
またオリンピック本番は炎天下。熱中症になり26㎞あたりで意識を失い、気づいたときは翌日になっていました。
金栗四三の初のオリンピックは残念な結果でしたが、熱射病だけが原因じゃなかったことをここで補足しておきます。
- 日本は初参加。スケジュール調整、体調管理など、選手サポートのノウハウが無かった。
- ストックホルム入りまで船と鉄道を使い20日もかかった。また初の海外渡航で負担が大きかった。
- ストックホルムは開催期間はほぼ白夜。睡眠に支障があった。
- ストックホルムには米が調達できず、食事の面でも苦労した。
- マラソンの当日、迎えに来るはずの車が来ず、金栗は競技場まで走らなければいけなかった。
- 当日最高気温40℃という記録的な暑さ。参加者68名中およそ半分が途中棄権し、レース中に倒れて翌日死亡した選手までいた過酷な状況だった。
マラソン足袋の改良
ストックホルムから帰国した金栗四三は、4年後のベルリンオリンピックに向けてトレーニングを再開。これと同時に播磨屋の店主、黒坂辛作にマラソン足袋の改良を依頼します。
試行錯誤して作り、金栗に履かせては履き心地などをヒアリング。二人三脚で足袋を改良させていきました。
自転車のタイヤを裂いて足袋の裏に貼るなどのしながら、良質なゴムを見つけて足袋底に貼ることにたどり着き、滑り止めのためにナイフでゴムに溝をつけ完成させたのでした。
大正8年(1919)、足袋底にゴムを貼り付けた、改良マラソン足袋を「金栗足袋」と名付け売り出すと、大ヒット商品になりました。
金メダル
金栗四三は、金栗足袋を履き世界新記録を達成。
12年間に渡り日本マラソン界の頂点に立ち続け、3度のオリンピックに出場するもメダル獲得はできず、大正13年(1924)のパリオリンピックを最後に引退しました。
金栗足袋は多くの選手が履いて活躍しました。
昭和11年(1936)、ベルリンオリンピックで、孫基禎が金栗足袋を履いて金メダルを獲得。
昭和26年(1951)、ボストンマラソンでは、田中茂樹が金栗足袋を履いて優勝しています。
カナグリシューズ誕生
戦後、播磨屋店主の黒坂辛作は金栗足袋の改良にとりかかります。
足袋の金具(こはぜ)を取り外し、ランニングシューズのように足の甲の部分を紐で結ぶ靴を開発しました。
この靴を「カナグリシューズ」と名付けました。
このカナグリシューズが日本初の国産ランニングシューズです。
昭和28年(1953)4月、金栗の弟子、山田敬蔵がカナグリシューズを履いてボストンマラソンに出場。
世界新記録2時間18分51秒という驚異的な記録で優勝し世界を驚かせました。
この時、金栗は62歳。黒坂73歳。
出会って40年が経過していました。
カナグリシューズを履いて優勝した山田敬蔵は、アメリカ人から好奇な目を向けらます。
その原因は靴。
カナグリシューズはつま先が2つに分かれいたので、足袋というものを知らない外国からすると可笑しな履物だったのです。
そのため、「ちゃんと5本の指があるかどうか足を見せてくれ」と言われたそうです。
マラソン足袋の終焉
日本初のランニングシューズを手掛けたころに「ハリマヤ運動用品」と会社名を改めます。
高度成長期にともなってスポーツ人口が増え、会社は大きく発展。経営者も3代目に。
東京・大塚に本社を構え、北陸地方に生産拠点を持ち、常にシューズ開発の最先端を行っていたため、業界をリードする会社でもありました。
シューズの3本ラインは、ハリマヤの技術です。
単なるデザインではなく、走っているときに布が伸びるのを防ぐためでした。
1960年~1970年代になると、オニツカタイガー(アシックス)製品「マジックランナー」に押されるようになりました。
昭和39年(1964)、東京オリンピックではマジックランナーを履いた、円谷幸吉が銅メダル。
昭和43年(1968)、メキシコオリンピックでは、君原健二が銀メダルを獲得。
マラソン足袋の時代が終わります。
ハリマヤ
昭和46年(1971)、ハリマヤはアジアに進出。
体育シューズ生産もはじめ、大量販売に乗り出します。
マラソン界のレジェンド的存在の金栗効果もあり、ある程度のシェアはありましたが経営に苦戦します。
バブル期になるとハリマヤは多角経営に乗り出し、飲食店や不動産などにも手を広げ、バブルが弾けて1991年、事業が出来なくなり事実上の倒産をしました。
さいごに
日本初のオリンピックに参加した金栗四三の競技人生に大きく関わり貢献した、播磨屋の創業者黒坂辛作さんの人生はいかがだったでしょうか。
マラソン界のレジェンド金栗四三にとってかけがえのない人物でした。
大河ドラマ「いだてん」でどのように描かれるのか楽しみに拝見したいと思います。
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